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 今泉家ゆかりの土地2(小石川屋敷・小竹町屋敷)へ進む 

 

goo地図が、昭和22年当時の航空写真を、高画質で大きく見られるようになったため、

その航空写真を、記憶が明確な母の姉に見ていただいたところ、

今泉家戸田屋敷の母屋の位置が、墨田工業株式会社があった場所(地図)ではなく、

戸田第一スカイハイツの駐車場の場所(地図) であることが分かりました。

 

そして、これまで、母屋だったと推測されていた場所は、

曽祖父・今泉吉太郎の三男(祖父の弟)に与えられた三男邸跡でした。お詫びして訂正いたします。

祖父・今泉秀雄の二女(母の姉)にも確認しております。

 

 

 広大な庭園があった今泉家・戸田屋敷の跡 

上の地図で「母屋」とあるのは、今泉吉太郎の三男・健造氏に与えられた屋敷でした。

下の写真のうち、集合写真の方は、地図上の印の場所で撮影したと思われます。

 

 

昭和初期 今泉家戸田屋敷の庭園で撮影

 

   現在、戸田第一スカイハイツ庭園にある“あずまや”の辺りだと思われます。

背景の樹木は現在、築山として整備されています。

 ←この辺りより、東方向(地図右方向)か北方向(地図上方向)を背景に撮影したと考えられます

 

 

 

今泉家の礎を築いた今泉吉太郎

 

曽祖父・今泉吉太郎の生涯 〜妻を二度も看取った人生〜

 明治21年(1888) 2 月22日  群馬県山田郡桐生町安楽 (現 桐生市) の和田家で生まれる  0才
 明治22年(1889)11月26日  東京市小石川区久堅町89番地 (現 文京区小石川5丁目) の今泉家に養子  1才
     
 明治45年(1912) 4 月17日  東京市本郷区湯島4丁目 (現 文京区湯島1丁目) の池田かんと結婚  24才
 大正 3 年(1914) 1 月 5 日  次男・今泉秀雄 (祖父) が本籍・東京市小石川区久堅町89番地で生まれる  25才
 大正 5 年(1916) 2 月15日  妻・今泉かん (曽祖母) が24才で他界 (祖父2才1ケ月でママを失う)  27才
 大正 9 年(1920) 9 月 3 日  本籍が東京市小石川区久堅町85番地に転籍  32才
     
 大正14年(1925)12月 8 日  秋田県山本郡能代湊町 (現 能代市) の鐙ツルさんと再婚 (祖父11才)  37才
 昭和 9 年(1934) 1 月 3 日  妻・今泉ツルが40才で他界  45才
     
 昭和25年(1950) 1 月21日  埼玉県北足立郡戸田町下戸田3689番地で他界  享年61才

 

 

母方の曽祖父・今泉吉太郎 (ひいおじいちゃん) が暮らしていた今泉家 戸田屋敷。

今泉家戸田屋敷は、埼玉県北足立郡戸田町下戸田3689番地 (現 埼玉県戸田市喜沢南1丁目4番地) にありました。

 

今泉吉太郎は群馬県桐生市の出身で、和田家の生まれでしたが、

明治22年11月、わずか1才で、東京府東京市小石川区久堅町89番地・今泉定吉の養子となりました。

養父の今泉定吉も群馬県桐生市の出身で、嘉永元年3月、群馬県山田郡桐生村で生まれていますから、関わりがあったのでしょう。

 

明治45年、曽祖父24歳の時、東京市本郷区湯島4丁目3番地 (現 文京区湯島1丁目10〜11番地付近 地図) の池田かんと結婚し、

2年後の大正3年には祖父・今泉秀雄が、本籍となる小石川区久堅町89番地 (現 文京区小石川5丁目30番地付近 地図) に

あった今泉家小石川屋敷で生まれましたが、大正5年、曽祖母・今泉かんは24歳の若さで他界してしまいました。

曽祖父は結婚4年で妻を失い、祖父は2歳1ケ月で母親を失ってしまったのでした。

 

 戸田屋敷と小石川屋敷

 今泉家は小石川屋敷と戸田屋敷の2つがありましたが、どちらが先に存在したのか、詳しいことは分かりません。

 祖父が大正3年に生まれたのは本籍の文京区小石川、曽祖母が大正5年に他界したのは本籍の文京区小石川であるのに対して、

 昭和25年に曽祖父が他界したのは、戸田市喜沢南であることを考えると、小石川屋敷が先に存在したのかもしれません。

 

 

 

 

 ▽今泉家 母屋跡は…

今泉家戸田屋敷は 「母屋」 「庭園」 「今泉製針所」 「今泉吉太郎三男邸」 「水田と借家」 で構成されていました。

母は幼かった頃、祖父に連れられて 、姉3人と一緒に今泉家戸田屋敷を訪れています。

その当時の記憶によると、母屋は大変大きく、縁側には畳2枚が端から端まで敷かれているほどで、

男女に分かれていたお手洗いには小石が敷かれていたそうです。

母屋があった土地は、戸田第一スカイハイツ戸田シティ自治会)のA棟とE棟の間に位置する駐車場に姿を変え、

地面はアスファルトになっています。

 

 

 

 

 ▽今泉吉太郎 三男邸跡は…

今泉吉太郎が三男に住居と土地を与えて、三男一家が暮らしていた今泉吉太郎 三男邸跡は、

墨田工業株式会社 戸田工場に姿を変え、長年に渡って人々が働いていましたが、

墨田工業株式会社は倒産してしまったことにより、戸田工場も閉鎖されました。

BELISTA戸田公園東というマンションの駐車場(地図)に変貌しています。

 

 

 

 

 ▽株式会社 今泉製針所跡は…

今泉吉太郎が代表取締役を勤めていた株式会社 今泉製針所の工場があった土地は、

前澤化成工業株式会社戸田工場に姿を変え、長年に渡って人々が働いていました。

今泉吉太郎が他界してから4年後の昭和29年、今泉製針所の土地を売却、前澤化成工業となりました。

前澤化成工業では今泉製針所の建物をそのまま利用することになりました。

昭和48年当時も今泉製針所の建物を利用していたことが、当時の住宅地図を見ると分かります。

 

しかし、このように今泉家と縁があった前澤化成工業 戸田工場は、平成17年8月をもって閉鎖されてしまい、

現在、天然温泉七福の湯 戸田店 (店舗と駐車場)に姿を変え、人々の癒しの場となっています。

今泉製針所跡地の地下1400メートルから温泉が湧出して、天然温泉をかけ流ししている七福の湯には、

曽祖父も祖父も、きっと空から驚かれていることでしょう。

 

 今泉製針所と祖父

 曽祖父亡きあと、今泉家戸田屋敷内から今泉家小石川屋敷内へ移転していた株式会社 今泉製針所ですが、

 祖父が曽祖父のあとを継ぎました。そして、小石川屋敷から練馬区小竹町へ分家後は、母屋の応接間で今泉製針所を営み、

 昭和30年代後半、練馬区練馬の小さな住居に転居後は、今泉製針所も移転し、小さな敷地内に工場も建てました。

 

 

 

 

 ▽今泉家 庭園跡は…

広大な庭園だった土地は、戸田第一スカイハイツ戸田シティ自治会)とシンエーハイツ戸田に姿を変え、

たくさんの人たちが暮らしています。戸田第一スカイハイツの中庭には池がありますが、

これは当時、今泉家の庭園にあった池を利用して、現代的に改修して下さったものです。

南側を中心に埋め立てられ、広さは狭くなったものの、貴重な池を残していただき感謝しております。

これからもこの緑に囲まれた池を、後世に残していただきたいと願っております。

 

 

今泉吉太郎が他界してから10年後の昭和35年前後、庭園部分の土地を売却、

池の東側、丘のような部分に志村化株式会社(現・株式会社エス・サイエンス) の戸田寮が建設されました。

その後、昭和45年前後には日本庭園の池は残されたまま、志村化 戸田工場が開業 しました。

今まで、志村化成が開業して数年後、日本庭園の池は全て埋め立てられたと思われていましたが、

昭和49年に撮影された空中写真(下記)などにより、池は埋め立てられていないことが分かりました。

昭和56年頃に志村化成 戸田工場が撤退し、昭和57年に戸田第一スカイハイツを建設する際、

日本庭園の池のうち、南側(道路側)・西側(H棟側)・東側(D棟側)を埋め立て、池の大きさは半分になりました。

昭和49年 志村化 戸田寮と志村化 戸田工場時代

今泉吉太郎が健在当時の母屋も池の入江部分の東側(写真右側)に見られる

 

 

昭和54年 志村化 戸田寮と志村化 戸田工場時代

今泉吉太郎が健在当時の母屋がまだ池の入江部分の東側(写真右側)に見られる

 

 

昭和59年 完成まもない戸田第一スカイハイツ

池は残されたが小さくなり、今泉吉太郎が健在当時の母屋は駐車場になった

 

 

 ▽水田と借家跡は…

今泉家所有の水田と借家があった土地は、詳細が不明なのですが、一部か全域は戸田市立喜沢中学校に姿を変え、

現在、中学生の子どもたちが元気よく通っています。

 

昭和26年〜36年の間に、水田と借家部分の土地を売却、

当初は日本短波放送の送信所と戸田市役所 職員寮が建設されました。

戸田市役所 職員寮は今泉家所有の借家を利用したとも考えられますが、詳細は不明です。

 

昭和50年4月1日、 日本短波放送と戸田市職員寮跡に、 戸田市立喜沢中学校が開校しました。

日本短波放送跡戸田市職員寮跡に校舎が建設され、水田跡は校庭として利用されました。

  

平成16年6月、その喜沢中学校と戸田第一スカイハイツを訪ねました。その時の写真が下です。

 

 

 

 

 

 今泉家戸田屋敷in水田と借家跡

今泉家戸田屋敷 敷地跡にたつ喜沢中学校の校舎

校庭は水田でした 曽祖父たちは汗を流した

今泉家戸田屋敷跡の校庭で開催された体育祭

背景にある戸田第一スカイハイツが庭園でした

 

今泉吉太郎が愛した石…?

 

曽祖父・今泉吉太郎は、石や岩をこよなく愛していて、

池のある庭園を中心に上屋敷内には、

たくさんの石や岩が置かれていたそうです。

喜沢中学校の校門を入って右手に、いくつかの岩がありますが、

今泉家の屋敷当時にあった岩を使ったのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 今泉家戸田屋敷in庭園跡

今泉家の屋敷時代から見守り続ける大木

昔はこの大木の近くまで池だった

今泉家の庭園を偲ばせてくれる池

 

今泉家ゆかりの池を泳ぐ鯉

築山と松の木

木道も整備されています

昔は池が入り江のように写真右へ伸びていた

昔のせせらぎが復元されています

 

 

 

今泉家 戸田屋敷のエピソード

 

 

 子どもに厳しい曽祖父 vs 子どもに優しい祖父

この地に今泉家 戸田屋敷があった時代、

現在の戸田第一スカイハイツ駐車場の場所にあった母屋(地図)から

短気だった曽祖父は、双眼鏡で庭園の池を覗き、

子ども達が池に近づいて悪さをしないか監視していたそうです。

そして、息子である祖父たちに

「おい!子どもを追い払ってこい!」と頼んでいました。

子どもが好きだった祖父にとっては、怒って追い出す事はできず、

「危ないから遊ばないでね。恐い人が出てくるよ」と言って

敷地内から出ていかせたそうです。

 

 

 池にはボート

庭園にあった池にはボートもあり、今泉家へ来客されたお客様に、

ボートの上から、庭園の風景を楽しんでもらったそうです。

母屋から庭園の池に行くには、坂を下りていったそうです。

当時は池の場所に比べて、

池の東側の土地は高かったと思われます。

現在でも、戸田第一スカイハイツなどの地面と比べると、

喜沢中の地面が高いのは、その名残りでしょう。

 

 

 戸田屋敷の襖に体当たりして破いた曽祖父

母屋には襖がいくつも続いているほど和室がたくさんあり、

短気だった曽祖父はマージャンで負けると、

襖に体当たりして歩いて、襖をやぶったそうです。

女中さんと呼ばれる人たちも2〜3人いました。

 

 

 滝から流れるせせらぎにはザリガニ

母屋から庭園の池へ行くための坂道には、

たくさんの大きな岩があり、

滝から水も流れ落ちて、池まで “せせらぎ” として流れていたそうです。

その “せせらぎ” にはザリガニも住みついていた模様です。

 

 

曽祖父 今泉吉太郎

群馬県桐生市

東京都文京区

埼玉県戸田市

祖父 今泉秀雄

埼玉県戸田市

東京都文京区

東京都練馬区

 

東京都練馬区

東京都府中市

東京都府中市

 

 

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